のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

記紀と出雲神話

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出雲神話日本書紀に書かれていない理由とは?

記紀を読んでいくと、古事記には事細かく書いてある出雲神話日本書紀には書かれていないのは何故?、というテーマに突き当たります。

今回はこれについて考えて見ました。

 

出雲神話とは何か、なぜ日本書紀に書かれていないのか
 出雲を舞台にした神話ということで「高天原を追放されたスサノオの八岐大蛇退治、クシナダヒメとの結婚、六代孫のオオナムジが因幡の白兎を助け、二度も殺されながら復活し、最後には根之堅州国でのスサノオの無理難題にうち勝って須勢理毘比売と結ばれ大国主神となり、出雲の国の王となる話」と考えます。

 日本書紀本文では八岐大蛇退治、クシナダヒメとの結婚は書いてありますが、オオアナムチはスサノオクシナダヒメの子供になっています。そして一書(第一)では五代孫が大国主神であり、一書(第二)では六代孫がオオアナムチとなっています。そしてオオアナムチと少彦名命は力を合わせて天下造りをした、とあります。
 つまり、因幡の白兎、八十神の二度にわたる殺戮とそこからの復活、根之堅州国での苦労などは全く書かれていません。Why?
 つらつら考えるに、日本書紀編纂時には既に古事記が完成していますので、編纂者は当然古事記を読んでるでしょう。でも出雲神話は書かなかった。つまり、書く必要がなかったということだと思います。対外的正史である日本書紀に内々の話である出雲神話を書く必要性がない、と編纂者もしくは権力者(藤原不比等?)が判断したのだと思います。
 では、古事記にはなぜ出雲神話を書く必要性があったのでしょうか。

 

古事記出雲神話が書かれた理由とは?
 
古事記は第40代天武天皇の勅命により編纂が開始され、第43代元明天皇の御代である和銅5年(712年)に完成した。その編纂目的は天皇家による統治の正当性を知らしめることにあった。そして天皇一族や皇室関係者、貴族、各氏族の族長等に読ませたものと考えられます。ぶっちゃけて言うと、「神の血を引く天皇が国を治めるのは、神代から決まっていることなのだ。皆、刃向かうことなく従えよ!」と言うこと。
 但し、古事記編纂にあたって大和政権が頭を悩ましたのが、出雲一族征服をどう扱うかということだったのではないかと思います。当時、出雲は大陸に近いこともあり鉄を主体とした文化が栄え、出雲王朝(?)があったことは考古学でも証明されています。
三世紀後半と言われていますが、大和が出雲を征服するのです。事実は武力征服であったため出雲一族の鎮魂と恨みを残さないためには古事記にどう表現するか問題になったのではないかと推測します。
 そこで考えられたのが「国譲り」で、アマテラス、つまり大和政権に譲るのはやむを得ないことなんだよと言う話に持って行く、しかもその理由はスサノオの時代にあるということにした。そして出雲一族への敬意を表するため出雲のヒーロー大国主神の活躍を最大限に書き表し、そのヒーローが国譲りに応諾したのだ、という流れにしたのだ。
 国譲りが当然とされた理由とは、
 ①そもそも葦原中国は、アマテラスが岩屋戸に籠もった時に暗闇となったことから
  分かるようにアマテラスの支配の範疇にある。
 ②大国主神高天原から追放された反逆者のスサノオの六代孫であることから正当な
  統治権の継承者にはなれない。

 ところが、そうは問屋が卸さなかった。崇神天皇垂仁天皇の御代にまで大国主神
祟りが及んだため、これを鎮めるために出雲大社が築かれた。
 

 つまり、古事記出雲神話が書かれた理由は、「平和な国譲り」を展望し、譲る側に出雲の偉大なヒーローが必要だったのです。

 

出雲国風土記にはどう書いてある?

 出雲を語るには欠かすことの出来ない古文書がもう一つありますね。そう、出雲国風土記ですね。ここには出雲神話が書かれているのでしょうか。古事記が712年、日本書紀が720年に完成していますが、出雲国風土記がヤマト朝廷に提出されたのが733年と言われています。つまり、出雲国風土記の編纂者は古事記日本書紀を読んでいた可能性が十分あるということです。
 さぁ、風土記出雲神話が書かれているか?そう、書かれていません。理由はもう分かりますよね。出雲神話大和朝廷がむりくり古事記に書いたものですから。出雲の人にしてみれば、「それ、どこの話?」ていうところではないでしょうか。

 さて、では風土記ではスサノオ大国主神はどう書かれているでしょう。

 まずスサノオです。スサノオには七人の子供がおり、スサノオと子供たちが出雲各地を巡り地名由来に自分たちの名を残しています。そして、乱暴狼藉を働くスサノオの姿は書かれていません。出雲でのスサノオは平穏な生活を送っていたようです。
 では、大国主神はどうでしょう。風土記では「天の下をお造りになった大神、大穴持命」と書かれ、武力で広い地域を平定する一方、農業の発展に熱心で多くの土地を開墾し、稲を育て領地を守り国を豊かにするために力を尽くしている姿が描かれています。後世、この地域から弥生時代の銅鐸や銅剣が発見されており、大穴持命に代表される勢力を持った人々が出雲にいたことが窺えます。
 そして、国譲りについても書かれていますが、記紀とはニュアンスが違うんですね。
大穴持命が造り治めていた国は天つ神の子孫に譲るが、出雲国は自分が鎮座する国として守るとしています。大和朝廷に提出する公式文書にこんな風に書いても良かったんですね。面白いですね。

 

 おまけです、風土記を見ていて分かったこと
 
神魂命(神産巣日神)の子供が6人いて、その中にキサカイヒメとウムキヒメがいたのです。そう、大国主神が最初に八十神に殺されたとき、サシクニワカヒメの求めに応じて神産巣日神が遣わした女神達です。それで分かったのです。なぜ高御産巣日神でなく神産巣日神に助けを求めたのか。神産巣日神は出雲系の守り神だったのです。

 ということは、造化三神の段階で既に決まっていたのです。
天之御中主神は中間派、
高御産巣日神は大和系、
神産巣日神は出雲系  ということです。
う~ん、奥が深いですねぇ~。