神武天皇即位が紀元前660年とされる根拠は?
(意見には個人差があります)
神武天皇が橿原宮で即位されたのは紀元前660年とされていますね。しかし、古事記には即位年については何も書かれていません。で、日本書紀を見るとこう書かれています。
「辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮」
(かのととり の とし の はるむつき かのえたつ の ついたち
天皇 は 橿原宮 にて ご即位 に なった)
この辛酉年春正月庚辰朔を太陽暦に換算すると「紀元前660年2月11日」にあたるとされています。2月11日はかつては紀元節、現在は建国記念の日です。
でも、紀元前という概念が日本で使われるのは西暦が採用された明治時代になってからですよね。ということは、明治時代に何らかの解釈が生まれたのか?
という疑問からいろいろ調べて見ました。但し、意見には個人差があります。それと、私は基本的に理解力が乏しいので、何度読んでも分からなかった部分はかなり省略しています。
まず、基礎知識です。
①十干十二支
中国・前漢以降、年を表わすのに使われてきた干支。
十干 : 甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸
十二支: 子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥
これを甲子から始まって順に追っていくと58番目が辛酉、60番目が癸亥となり次がまた甲子に戻ります。このことから60才を暦が最初に戻ると言う意味で還暦といいます。
②辛酉革命(しんゆうかくめい)
7世紀初頭、中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった「辛酉年には社会的大革命が起きる」とする讖緯説(しんいせつ)の一つ。①で書いたように干支が一周する60年を1元といい、21元を一蔀(いちぼう)という。60年×21=1260年の辛酉年に国家的革命が行われると言われ、日本では推古天皇、聖徳太子のころから信奉されたようです。
③日本最初の暦
大和朝廷は暦法や天文地理を学ぶため百済から僧を招き、33代推古天皇12年(604年)に日本最初の暦が作られました。当時は太陽太陰暦でしたが、なんとこれが明治時代に太陽暦に改められるまで続いたのです。ムチャクチャながぁ~~い!
さて、やっと本題です。神武天皇の即位年を紀元前660年とした根拠はなんでしょうか。これには諸説あるようです。一応、有力とされているのが明治時代の歴史学者である那珂通世(なか みちよ)の考え方です。
「推古9年(601年)は辛酉年に当たるので、日本書紀編纂者はそこから一蔀・1260年前の辛酉年を即位年とし、日本の紀元としたのだ。」
ここからは私見です。
当然のことながら、日本書紀編纂時には紀元前とか西暦とかいう概念はありません。
日本書紀編纂者は、とにかく神武天皇即位年をMAX遡った辛酉年を想定して書いたのだろうと思います。 もちろん、それが紀元前になるなんてことは考えていません。
そして明治時代になり太陽暦が採用され、歴史を遡って西暦換算をしていったら、あれれ? 紀元前になっちゃった! ということではないでしょうか。601年から1260年遡ると、紀元前660年になりますね。 では、601年を起点としたのは何故でしょうか。
これの確固たる理由は分かりません。 あくまで推測ですが、編纂者には推古天皇や聖徳太子に対する畏敬の念があったのだと 思います。二人が活躍した時代に日本初の暦ができたり、国家の礎となる十七条の憲法などが 発布されたからです。
なんか上手くまとまりませんでした。おわかりいただけたでしょうか。
いずれにしろ、少しばかり大袈裟に言えば、「紀元前660年に即位」という解釈が現代まで続いていることは日本人としてとても素晴らしいことだと思います。