のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

神功皇后大研究(5)

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景行天皇ウィキペディア

 ④香坂王と忍熊王の反乱

 さて、三韓征伐を終えた神功皇后は、我が子に危険が迫っていることを察知し、大和国に帰る時に一計を講じたのです。つまり、御子の異母兄である香坂王(かぐさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)の反乱を察知し、これに備えたのです。
 ところで、品陀和気命(後の応神天皇)と異母兄二人のポジションが分かりづらいと思いますので図にしました。ご覧になってお分かりの通り、皆、景行天皇の血筋なんですね。冒頭の写真が景行天皇です。この天皇には80人の子供がいたそうです。子供の中で超有名なのは小碓命(倭建命)ですね。
 ただ、いくらなんでもそれはねぇべ、と思われることが古事記にサラッと書いてあるんですね。「景行天皇が倭建命の曾孫、名は須売伊呂大中日子王(すめいろおおなかつひこのみこ)の娘、訶具漏比売(かぐろひめ)を娶って生んだ御子は大枝王(おおえのみこ)」と。
 曾孫の娘って玄孫だよ、景行天皇から見たら自分の息子の玄孫と結婚、しかも子供を作っている。ありえへん! 景行天皇っていったいどんな人格なんだよ! なぜこんなことを古事記に書いたのか、意味わかんないので、図には書いてありません。

 失礼しました、少し熱くなってしまいました。
 さて、これが系図です。関係者名を全部書くととんでもなく複雑になるので要所だけの簡易版です。

 

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  つまり、応神天皇、香坂王、忍熊王は異母兄弟になるということがこれでお分かりいただけると思います。香坂王、忍熊王にしてみれば異母弟が母親の腹の中にいるときから次期天皇だ、なんて言われたらそりゃぁ面白くないでしょう。やってやろうじゃねぇかってなったんでしょうね。二人でやれば勝てんじゃねぇ?とか言って。

 香坂王と忍熊王は斗賀野(現在の神戸あたり)に出て誓約狩(占い)をして吉凶を判断するんですね。ところが、香坂王がクヌギの木に登っていたところ、大きなイノシシが現れ、クヌギを倒して香坂王を食い殺してしまったのです。占いは凶なんですね。恐いですねぇ、恐いですねぇ~。
 ところが忍熊王はこれを恐れずに神功皇后の兵船を攻めました。しかしながらこれは神功皇后の策略だったのです。御子はもう亡くなったというフェイクニュースを流し、喪船を用意したのです。忍熊王は喪船をやり過ごし、後から来た兵船を攻めたんですが兵船は空で、喪船に軍勢が乗ってたんですね。それから欺し欺されの戦いが続き、結局、忍熊王は自軍の将軍とともに琵琶湖に追い攻められ、そこに身を投じて死んでしまうのです。なんだかとても可哀想な話ですねぇ。
 ベベンベンベン♪、義太夫であればお涙ちょうだいのクライマックスです。

 さて、戦いに勝った神功皇后ですが、もう一つ、品陀和気命気比大神と名前を交換するという、ちょっと何言ってるのか分からない話がありますが、それは次回にしましょう。

 ではでは今回はここまで。次回をお楽しみに!!