さぁ、いよいよ中つ巻の始まりです。上つ巻は神代の話でしたが、中つ巻は神代から人の代への過渡期の話です。ここで言う「人」とは「天皇」のことと考えていいと思います。初代神武天皇から15代応神天皇までの事績や系譜、崩御年などが書かれていますが、ハッキリ言って、読んで面白い段とそうでもない段があります。
今回から数回に亘って、私が面白いと思った話をしていきますので、「お前の話はつまらん!」と思われる方もいらっしゃるかも知れません。その場合は(_ _)。
目次
1.東征前のカムヤマトの話が凄い
古事記には書いてないのですが、日本書紀にとんでもなく凄いことが書いてあるんです。神倭伊波礼毘古命はが45歳の時、兄や子供達にこう言ったそうです。
「天祖(アマツミオヤ)が降臨してから、今、一百七十九萬二千四百七十餘歲だ。 」
つまり、天孫降臨から、今、179万2470余年経った、ということです。いいですか、もう一度いいますよ。179万2470年余り経った。ええーっ!ということは、ニニギが降臨し、ホオリ、フキアエズの時代までで約180万年ということです。日向三代で180万年、一人平均60万年・・・。いくらなんでも、それはねーべさ、どないなってまんねん、と誰でも思いますよねぇ。意味分かんないですよね!
2.東征経路(前半)
カムヤマトと兄の五瀬命(いつせのみこと)は高千穂宮でミーティングです。
*高千穂宮は二人の祖父のホオリが580年住んだ御殿です。そして、父のフキアエズも住んでますから、超長持ちの宮殿ですよねー。国宝級じゃねっ!んっ、待てよ。高千穂宮ってニニギが降臨した時に建てた宮殿じゃ
ないか?ということは、築180万年?
カム「一体、どこに住めば平和に天下を治めることができるんだべか。東へ行ってみた
らどうじゃろかなー。」
イツ「んだなー、ほんじゃ行ってみっか。」
ということで日向を出て宇沙(大分県宇佐市)へ向かいます。
①⇒② 日向から宇沙(大分県宇佐市)へ
土着の宇沙都比古、宇沙都比売が服属の証で歓待した。
②⇒③ 宇沙から筑紫の岡田宮(福岡県芦屋町あたり)へ。ここで1年滞在。
③⇒④ 筑紫から阿岐国の多祁理宮(広島県府中市あたり)へ。ここで7年滞在。
④⇒⑤ 阿岐国から吉備の高島宮(岡山県か?)へ。ここで8年滞在。
⑤⇒⑥ 吉備から速水門(明石海峡)を通って白肩津(大阪湾沿岸)へ。
⑥⇒男之水門(大阪府泉南市あたり)へ。
このあたりまでが東征の前半です。結構、長期滞在してますよねー、日向を出てから大阪まで20年ぐらいかかってるんじゃないでしょうか。のんびり旅か?
3.五瀬命の戦死
ここまでで戦いらしきものといえば、白肩津での地元の豪族である登美毘古(とみびこ)との戦いですね。イツセはこの戦いで傷を負ってしまいます。
「我らは日の神の御子なのに、日に向かって戦ったのがよくなかったんや。じゃで、敵に傷を負わされてしもた。これからは、回り込んで背に日を負って敵を討つべ!」
てなわけで、そこからさらに回り込み男之水門に着きます。しかし、そこでイツセが力尽きます。「賤しきヤツに手傷を負わされて死ぬことになるとは、無念じゃー!」
兄を亡くしたカムヤマトはそれでも、さらに回り込んで熊野に着きます。
この続きは次回に!
4.今回のポイント
①そもそも神武東征の目的はなに?
東征の目的は、平和に天下を治めることができる場所を探すことです。そこでカムヤマト兄弟は東に向かったのです。なぜ東か? 東は日が昇るところ、つまり天つ神の加護を受けられる所と思ったのではないでしょうか。
②日(太陽)に向かって戦うと負ける。
五瀬命が傷を負ったのは太陽に向かって戦ったからです。確かに、太陽に向かうとまぶしくて相手がよく見えませんね。巌流島の戦いでも武蔵は太陽を背にして勝利しましたね。
5.まとめ
さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、有り難うございます。
今回と次回で神武東征の話をします。ややマニアックな話なので、あまり面白くないかも知れません。でも、古事記でははずせない話なので、お付き合いいただければ幸いです。
ではでは、次回をお楽しみに!!
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