のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

神社巡り復活までのあいだに~鎌倉殿の13人的研究(2)~保元の乱

後白河天皇(ネットから拝借)

 さてさて、今回から本題に入っていきますが、皆様に予めご承知いただきたい点があります。

①記事内は写真が少なく文章が中心になりますので途中で飽きちゃうかも知れません。
②資料は自作のものとネットからのものと混在します。
③記事の内容はあくまで爺さんの勝手な解釈によるもので、正誤についての責めは負いません。また、講義をするわけではないので、一つ一つの事象を深く掘り下げることはしません。

 要は、ちょっとばかり歴史好きの年寄が勝手に書いているもので、気楽に読んでいただけると幸いです。と、まぁ、言い訳が先になりましたが、そこんとこ、ヨロシク!

今回は保元の乱(保元元年 1156年)についてお話します。  

 

 

1.平安時代の政治体制

 平安時代(794~1185年)の政治体制は、ざっくりこんな感じです。

 前期・・・天皇親政(天皇が自ら政治に携わる)
 中期・・・摂関政治藤原氏の摂政関白が政治の実権を持つ)
 後期・・・院政上皇法皇が政治の実権を持つ)

 保元の乱が起きた保元元年は、まさに院政の時代です。では、院政とは具体的にいうとどういうことか、何のためにだれが始めたのか。

 院政とは、天皇を退位して上皇になり、さらには出家して法皇になっても政治の実権を握っていることを言い、上皇法皇の住まいを院と言ったことから院政と言われます。では、何のために誰が始めたか。
 一般的には、天皇の地位を自分の直系の子供や孫に確実に継承するためと言われています。更には荘園をめぐる利権の問題もありますが、話が面倒になるのでここではスルーします。
 そして、院政は72代白河天皇が始めたと言われています。応徳3年(1086年)、白河天皇はわずか8歳の73代堀河天皇に譲位し、自らは上皇となり院政を始めたのです。白河院制は堀河、鳥羽天皇時代にも及び40余年も続いたのです。アキサミヨー!

2.保元の乱の背景

 簡単に言うと、崇徳上皇派VS後白河天皇派の朝廷内の権力争いに摂関家藤原の内紛が加わった歴史的政争です。この事件を機に、平氏、源氏の武士が歴史の表舞台に登場することになります。(ちむどんどんするサー!ぴょんぴょん!)

ネットから拝借しました。

 保安4年(1123年)、鳥羽天皇崇徳天皇に譲位し上皇になり、院政を始めます。
実は、崇徳天皇は表向きは鳥羽上皇の第一皇子なのですが、本当は後白河法皇と妻の藤原璋子が不倫をしてできた子だと言われています。これを信じていた鳥羽上皇崇徳天皇に冷たく当たっていました。(そりゃそうなるわな・・・)
 そして、永治元年(1141年)、崇徳天皇に退位を迫り、鳥羽上皇の側室、美福門院得子が生んだ近衛天皇を即位させたのです。崇徳天皇は早期の退位を迫られたうえ、自分の皇子の重仁でなく、異母兄弟の近衛天皇が即位したので、もー、頭に来ちゃうぜ麦畑状態になります。いつか恨みを晴らしてやるぜー!
 さらに、近衛天皇が17歳で亡くなると、崇徳の弟である後白河天皇を即位させます。これで、崇徳直系の天皇即位の芽が完全になくなります。わじわじするーっ!

 保元元年(1156年)、鳥羽院崩御します。すると、「崇徳上皇藤原頼長が兵を率いて反乱を起こそうとしている」という噂が流れ始めます。このため後白河天皇は頼長が兵を集めないようにして、さらに財産も没収してしまいます。実は、この噂は後白河側近の藤原信西が流したフェイクだったのです。まさかやー!

3.保元の乱勃発

 いよいよ追い詰められた崇徳院と頼長は、こうなったら挙兵するしかないっしょ、いつします? 今でしょ! 林先生!
こうして保元の乱が勃発するのですが、朝廷や貴族が武器を持って戦うわけではなく、それぞれが武士団を集めて、武士たちがチャンチャンバラバラやるんですね。
結局、こんな二チームが出来上がりました。保元元年(1156年)のことです。

 ご覧になってお分かりの通り、親子、親戚が互いに戦うのです。源平もまだ一枚岩ではなかったんですね。

4.保元の乱終結

 後白河天皇方の夜襲で保元の乱は1日で終結します。敗北した崇徳上皇は自ら出頭、
上皇方の貴族や武士も投降しました。藤原頼長は戦いで負った傷がもとで絶命、忠正、為義は一族をも含めて斬首されました。
 そして、崇徳上皇は讃岐へ配流となりました。天皇上皇が配流となるのは奈良時代恵美押勝の乱淡路国へ流された淳仁天皇以来、400年振りのことでした。

5.崇徳院の怨霊伝説

 配流後の崇徳上皇は軟禁生活のなか、仏教に傾倒し極楽往生を願って熱心に写経などに励んでいたのですが、二度と京の地を踏むことなく、島流しから8年後(1164年)に
亡くなります。そして崇徳の魂は朝廷への恨みにより怨霊と化すのです。
怖いですね~、怖いですよ~。


 崇徳崩御後の安元3年(1177年)延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀などの事件が相次ぎ、崇徳の怨霊のせいではないかと大騒ぎになります。後白河院は魂を鎮めるため保元の乱の戦場だった春日河原に崇徳院廟を設置しました。

 ちなみに、日本三大怨霊は菅原道真平将門崇徳上皇です。恐!

6.まとめ

 さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 いや~、たったこれだけの記事を挙げるために、文献を読んだり、ネットなどで情報を集めたりと結構な時間を要してしまいました。頼朝の話にたどり着けるまでにはまだまだです。ふーっ、期待しないでお待ちください。


参考文献
一冊でわかる鎌倉時代    大石学  河出書房新社
考証 鎌倉殿をめぐる人びと 坂井孝一 NHK出版新書
読む年表 日本の歴史    渡部昇一 WAC文庫

 


神話ランキング

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

ブログランキングに参加しています。ポチッと押していただけるとうれしいです。

ブックマーク、読者登録いただけたら励みになります。