のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

神社巡り復活までのあいだに~鎌倉殿の13人的研究(5)~以仁王令旨

以仁王(ネットから拝借)

 皆さんは以仁王(もちひとおう)という方をご存じでしょうか。この方は平安末期の貴族で後白河上皇の第三皇子です。(第一皇子は二条天皇、第二皇子は仏門に入った守覚法親王)実は、頼朝挙兵のきっかけを作ったという意味では歴史的にはとても重要な方なんです。大河ではジャイアンの声優さんが演じてましたね。爺さん、こういうの嫌いじゃないです。

 

 

1.頼朝と北条政子の婚姻

 以仁王の話の前に、頼朝と北条政子の婚姻について触れておきます。
安元元年(1175年)、頼朝が蛭ケ小島の北条館に移ってから、今度は北条の娘の政子と仲良くなり、治承2年(1179年)には長女の大姫をもうけます。伊東祐親は頼朝と娘の婚姻に激怒したが、時政はそれほどでもなく結果的には認めている。
 この違いな何でしょうか。これは私の想像ですが、北条は伊東ほどの大豪族ではないので平氏とのかかわりが薄かったこと、生まれた子が娘だったことなどが考えられます。それにしても、流人頼朝の女好きには、アキサミヨー!
 さて、以仁王の話に戻ります。

2.以仁王の決心

 以仁王後白河上皇の第三皇子で、血筋も高貴で頭もよく歌や笛の名手だと言われています。平安の出来杉くんだったんですね。第80代天皇の有力候補だったのですが、高倉天皇にその座を奪われてしまいます。その背景には高倉天皇の母・平滋子の妨害があったと言われています。

ネットから拝借しました

 1177年の鹿ケ谷の陰謀では、後白河上皇の息子ということで自分の所領としていた土地を清盛に奪われてしまいます。そして、1180年に高倉天皇の息子の安徳天皇が即位したことにより、以仁王天皇になる芽は完全になくなってしまいました。

 もう限界じゃ!!ヽ(`Д´)ノプンプン

 もはや以仁王の我慢も限界に達し、1180年4月、協力者の源頼政とともに平氏打倒の挙兵を決心したのです。

3.以仁王の令旨

 以仁王は各地の源氏に打倒平氏を呼びかける令旨(りょうじ)を送ります。令旨とは皇太子が出す命令書です。以仁王は皇太子ではありませんが、自らを皇太子に見立てていたのでしょう。
 治承4年(1180年)、令旨を伝達する使者には源行家が起用されます。源行家は義朝の弟で、頼朝の叔父にあたり平治の乱後、熊野に逃れ20年近く隠れ住んでたのです。
 行家は令旨の日付と同じ4月9日に京を立ち諸国を廻り、そして、4月27日に伊豆北条館を訪れ、頼朝に令旨を伝えたと言われています。

ネットから拝借しました

4.清盛の反撃

 以仁王平氏打倒計画は、熊野別当の密告により1か月後には発覚してしまいます。
そりゃそうでしょう、行家が一人であちこち歩いている間にバレるのは当たり前で、むしろバレないと思う方がおかしいでしょう。
 清盛は早速、頼政以仁王の追討の兵を送ってきます。必死の抵抗もむなしく頼政平等院の戦いに負け、自害してしまいます。一方、以仁王は奈良に向かう途中で追討軍に討たれ落命してしまいます。

5.以仁王の令旨がもたらしたもの

 清盛は以仁王を討ったあと、さらに令旨を受け取った源氏に対し追討軍を送ってきますが、これがかえって源氏の反撃を生んでしまいます。座して待つよりやってやろうじゃないか、ということで挙兵した二大勢力が頼朝と義仲なのです。
 こうして、世にいう源平合戦の火ぶたが切られたのです。ちむどんどんするさー!

6.まとめ

 さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、有難うございます。

 以仁王の乱はわずか1か月あまりで終結してしまいますが、源平合戦のトリガーになったという意味では歴史的にも重大な事件だったということが分かります。

 さて、いよいよ頼朝挙兵の話になっていきますが、このシリーズはどこまで続けたらいいのかだんだん分からなくなってきました。大した記事ではありませんが、一つ書くのに結構なエネルギーを要します。承久の乱あたりまで行ければいいのですが・・・。

 

参考文献
一冊でわかる鎌倉時代     大石学  河出書房新社
考証 鎌倉殿をめぐる人びと  坂井孝一 NHK出版新書
読む年表 日本の歴史     渡部昇一 WAC文庫
源氏の血脈          野口実  講談社学術文庫
マンガ日本の古典吾妻鏡(上) 竹宮惠子 中公文庫

 


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