のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

古事記の神様と神社・番外編(2)

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 番外編第2弾です。古墳の話ですよ。私は古墳については全くの無知で、何も分かっていないのですが、芝公園に古墳があるということだけは以前から知っていました。あらためて地図を眺めてみたら、どうやら芝東照宮の裏手あたりだということが分かり、東照宮参拝の後に行ってみっか!となった次第です。

 

 場所はここです。

 

 さて、どこが入口なんだろうと思いながら公園内をうろうろしていると、こんな標識を見つけました。じゃぁ、ここを行ってみっぺ!

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 そうすると、ゴツゴツした石段がありました。登っていくとさらに木階段、またまた石段、えーっ、ほんとにここでいいのかな、ちょっと不安に・・・。

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 ハァーハァーいいながらやっと登りきるとちょっとした広場に出ました。そして、そこにあったのが伊能忠敬なんちゃら? なにこれ? 伊能忠敬測地遺功表とありますね。表? どれが? 勉強不足でよく分かりません。 

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 あとで調べて分かったのですが、伊能忠敬の測量の起点となったのが芝公園近くの高輪の大木戸であった関係で、東京地学協会がその功績を顕彰して遺功表を建てたものだそうです。
 でもなぁ~、ちっとも古墳ぽくないなぁ~なんて思っていたら、遺功表の正面にやや下る道があって、そこから歩いてくる方を見かけました。そうか、ここを行けるんだと思って行ってみました。振り返った景色がこんな感じです。

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 で、道の右側に意味の分からない虎(?)の像があります。なんだんべ、これ。

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 左に降りる道を進むと鳥居が見え、神社がありました。

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 説明板によると、江戸時代、増上寺移転の際に桑名から運ばれたご本尊阿弥陀如来像に随行してきた稲荷神が祀られた神社で、古墳上で増上寺の裏鬼門を鎮護している、ということです。ご祭神は宇迦之御魂神で、江戸時代より鎮座する大明神らしいですよ。
阿弥陀仏に稲荷神が随行してきた? 神仏習合とはちょっと違うのかな?

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 ここで豆知識です。鬼門とか裏鬼門とか聞くことがありますが、お分かりでしょうか。
 鬼門(きもん)とは、北東(艮=うしとら:丑と寅の間)の方位のことです。陰陽道では鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角としています。鬼門は常に北東の方角にあり、鬼門とは反対の南西(坤、ひつじさる)の方角を裏鬼門(うらきもん)と言い、この方角も鬼門同様、忌み嫌われています。

 神社を過ぎるとこんな標識がありました。 

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 あれれ、ということはですね、ここが古墳の入口なんでは? そうか、私は裏口から登り、訳も分からず古墳の上を歩き、本来の入口から出て来た、ということですね。こりゃまた失礼しましたー!

 あらためて、東京都の説明によれば
「芝丸山古墳は、都内最大級の規模をもつ前方後円墳です。芝公園の台地の先端部、標高約16mに立地しています。前方部を南々西に向け、その規模は、全長106m前後、後円部径約64m、前方部前端幅約40m、くびれ部幅約22mです。
 江戸時代以降に改変が加えられており、明治31年(1898)に、日本考古学の先駆者である東京帝国大学の坪井正五郎博士によって調査されましたが、すでに墳頂部(ふんちょうぶ)は削られ、後円部中央に位置していたと考えられる主体部(埋葬施設)は失われていました。また、埴輪(はにわ)を伴うこと以外は遺体や副葬品なども明らかになりませんでした。
 その後、西側及び北側が大きく削られ、本古墳の西側に存在した数基の円墳は台地とともに削られてしまいました。
 前方部が狭く低い形態であることや占地状態などから5世紀代の築造とみられています。古墳が築かれた当時、付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路をおさえていた南武蔵有数の豪族の墓だったと考えられます。」

 ということでした。なんの予備知識もなく行ってしまったという反省の日々を送りながらも、都会のど真ん中にある古墳に登ったということに感動しています。

 さて、次回はどこでしょうか、お楽しみに!

 


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