のと爺の古事記散歩

古希まぢかの爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

ヤマトタケルとは何者だったのでしょうか

 

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常陸第三宮吉田神社 日本武尊が東征の帰路、当地で兵を憩わせたという故事から創建された

 

古代のスーパーヒーローであるヤマトタケルについて考えて見ましょう。

はじめに
  ネットで「ヤマトタケル」と検索すると、たいてい次のように出ます。
記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)。 『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。
 う~ん、そうそう、それで最後は白鳥になっちゃう可哀想な人だよね~。 古事記を知らない時はこれで良かったけど、古事記を真面目に読み出したからには、もう一度一から検証してみようと思ったんです。ヤマトタケルとは何者だったのか?
 ということで色々調べてみました。

 

記紀でのそもそもの違い
 古事記では 「父である景行天皇から距離を置かれた悲運の王子」
 日本書紀では「父である景行天皇からも深く愛された英雄」
とでも言えるのでしょうか。但し、古事記は伝承性が高く、日本書紀は政治色が濃いという本来の違いがあります。もう少し具体的に見ていきましょう。

 まず、西征の発端となった兄である大碓命を惨殺した件ですが、日本書紀では兄殺害の記載は一切なく、熊襲征伐自体も始めに景行天皇自身が行っており、その10数年後に熊襲が復活したため、武内宿禰とともに計画した征伐に小碓命を指名したのです。ですから、倭建命(ここからはこの名前にします)が凱旋した時は大いに褒めちぎっているのです。尚、日本書紀では出雲建征伐の話は出てきません。また、東征においても最初に命じられた大碓命が恐れをなして逃げたため、倭建命にお鉢が回ってきたということです。古事記とは随分違いますね。
 では、日本書紀ではごく普通というか、むしろ優等生の倭建命が、なぜ古事記ではあんなにも残虐性を持ち合わせた危険な皇子として書かれたのでしょうか。これからは古事記を中心に検証を進めていきます。

古事記を読んでの疑問点
 古事記をじっくり読んでいくと、いくつかの疑問点が出てきます。
① 倭建命は紛れもなく天つ神の系統なのに、祀っていった神は多くが国つ神なのは何故か。例えば根津神社は倭建命が創祀したとされるが、主祭神スサノオです。
② 西征東征にはどんな意味があったのか。単に景行天皇が倭建命を遠ざけたかっただけなのでしょうか。
③ 西征に出たときは15~16才だった少年がいつの間に妃子各6柱を設けたのか。日本書紀によれば享年は30才。古事記では倭建命の最後の段で妃子の詳細を書いているが、物語に出てくる中では弟橘比売命が妃として書かれていて美夜受比売が書かれていない。
天皇ではないのに天皇と同等の表現がされている箇所がいくつかある。
⑤ 結局、古事記編者は倭建命をどう描きたかったのか。

たぶんこうだったんじゃないかなぁ~
① 倭建命が創祀したとされる神社で有名なのは根津神社熱田神宮でしょうか。熱田神宮は美夜受比売が草薙剣を奉納したことが始まりとされているので、ちょっと意味合いが違いますが、根津神社は由緒にもそう謳っていますね。なぜ天つ神の系統の倭建命が国つ神の筆頭のスサノオを祀ったのか。単に、草薙剣で危機を脱出できたのでそのお礼の意味で、だけではないと思います。それはね、自分と同じような苦難を経験し見事に乗り越えたことへの畏敬の念からではないでしょうか。スサノオを祀ることで自分も苦難を乗り越えるエネルギーを蓄えたかったのだと思うのです。ん~、いいこと言うね(自画自賛!)。
 ここでスサノオとの共通点を考えて見ましょう。
 ・純粋無垢なところがあるが、時に知恵を働かせる。
 ・異端であるが故に追放されるが、やがて英雄になる。
 ・女性の力を借りて難局を乗り越える。
 ・結局のところ統治者にはなれない運命にある。

結構似たところがありますよね。
完全神と半神半人という決定的な違いはありますが、古代日本では王者となるための試練として「家郷を離れて流浪、漂泊」、「異界巡りによる超人的能力の獲得」が必要と考えられていたと言われています。
 ・スサノオ ・・・乱暴を働いて高天原を追放されるが、出雲で八岐大蛇を退治する
 ・大国主命 ・・・八十神に二度殺されたが復活、根の国スサノオの試練を受ける
 ・神武天皇 ・・・熊野の地で神の毒気にあたるが復活する
 ・倭建命  ・・・東西の強敵と戦うが、伊吹山の神の怒りにふれる
 どうでしょう、そう言われてみればそんな気になってきませんか?

古事記景行天皇の条は倭建命の条に終始していて、天皇の事績については殆ど書かれていません。日本書紀では天皇自身が遠征をした記述もあり、古事記とは異なります。言えることは、この時代に大和朝廷の勢力範囲が南九州から関東にまで及んだということで、倭建命の遠征はその象徴として書かれたのだと思います。

③ これは何とも分かりませんね。遠征中の話で出てくるのは弟橘比売命と美夜受比売ですが、子供については何も書かれていません。15~16才で西征に出て、能煩野で亡くなられたのが30歳。約15年で妃6人、子6人を設けた。この15年はほぼほぼ戦いの連続だったと考えると「ご立派!」としか言いようがないですね。
 それにしても、弟橘比売命の死を嘆き「あずまはや」と言ったと思ったら、尾張に着くなり美夜受比売を訪ね、月経にも拘わらず「合体!」。この神経はどうなの、タケル君!

④ 天皇と同等の扱いに書かれている箇所があります。何故でしょうか。
 ・東征で走水海の荒波を鎮めるために入水する弟橘比売命を「妃」と書いていす。 
  妃は天皇に関したことにしか使いません。
 ・東征から戻った倭建命を迎えた美夜受比売が「大御食(天皇の御膳)」、「大御盞
 (天皇に差し上げるお酒)」を捧げたと書いてある。
 ・能煩野で亡くなられたが、「崩り(かむあがり)あそばされた」とある。これは天
  皇へのお言葉そのもの。
 ・御陵は応神天皇仁徳天皇ほどではないが、即位しなかった太子としては異例の長
  さがあるらしいです(全長200m)。宮内庁も白鳥陵古墳を認めているのでもう間
  違いない。
 ・大御葬四首の歌は今に至るまで天皇の大御葬で歌われる。実際に昭和天皇の大葬で
  は歌われたとのこと。
 ・物語の後に系譜記事が置かれるが、これは天皇の系譜記事と同じ形式である。

 さあ、ここまでくれば倭建命は天皇と言ってもいいんじゃないでしょうか。なぜ古事記はこのような書き方をしたのでしょうか。
 根拠のない私の推測です。
 景行天皇は倭建命を東征に行かせるに当たり、やる気を起こさせるためにこう言ったのです。「皇位継承の資格を持つ3人の太子(小碓命、若帯日子命、五百木之入日子命)のうち、お前を継承者に決めようと思う。ついては、次期天皇になる資格を万全にするため見事東征を成し遂げてこい。」ってね。これで本人はその気になり、周囲はもう天皇同様の対応をしたのではないでしょうか。
 そして、東の常陸の地に着いたときその資格を得ることができた。つまり、常陸の地に赴くことが王者(天皇)になるための試練だったのです。ただ残念なことに無事に大和に帰還することができなかった。これは景行天皇にとっても想定外のことだったと思います。やはり、草薙剣を置いていったのが間違いだったんだよ、自信過剰が命取りになったんだ、タケル君!
 常陸の地は古代人にとって常世国と認識されていたとのことです。常世国といえば大国主命と一緒に国造りをしていた少名毘古那神が行ったとされる海の彼方にある異界です。常陸国が海の彼方かどうかは微妙ですが、常陸国風土記では常陸国を「常世の国とはこの地のこと」と書いてあるそうです。ちなみに、同風土記には「倭武天皇」が登場するそうですが、倭建命とは別人でしょう。同風土記の完成が明確ではありませんが、元明天皇が全国に向けて風土記撰進の勅命を出したのが和同6年(713年)ですから、古事記完成直後、日本書紀完成以前になります。従って、古事記に出てくる倭建命を模して書くには無理があります。恐らく、これらとは全く違う伝承上の人物だと思います。

⑤ 古事記編纂者(太安万侶だけではないと思いますが)は出雲系のヒーローである大国主命に匹敵する大和系のヒーローとして倭建命を描きたかったのではないかと思います。大国主命は八十神に二度も殺されたり、根の国スサノオに散々いじめられたりしたが、結局は葦原中国を豊かな国へと変貌させたスーパーヒーローである。しかも、高天原はこの豊かな国をゴッド姉ちゃんアマテラスのわがまま(?)で略奪してしまった。天つ神の系統者は略奪ではないと言うが、建御雷之男神を遣わした段階で誰が見ても武力による略奪でしょう。
 大和朝廷は、この略奪のイメージをどこかで払拭したいと思い、関東にまで勢力を伸ばした景行天皇期に合わせて倭建命の活躍を国造りとして前面に押し出したのではないでしょうか。その証拠に古事記景行天皇の段では天皇の事績はチョロットしか書いてなく、殆どを倭建命の記述に使っています。大和朝廷だって国造りをやってるんだ、みたいな。
 では、どうして倭建命は死ななければならなかったのでしょうか。これはもうスーパーヒーローには不可欠の「非業の死」ってやつじゃないでしょうか。日本人のⅮNAには古代も現代もこの心情が組み込まれているのです。源義経なんてその最たるものですよね。ちなみにですが、私は義経が大陸に渡りチンギスハーンになったという説を信じる派です。あちこちに倭建命遠征の痕跡と言われる場所があったり、お祀りする神社が数多くあることを考えると、古代の人も悲劇のヒーローに惹かれたのではないでしょうか。

まとめ
 倭建命は架空の人物だとか、何人かの大和の事績を一人に集約したとか色々な研究があるようですが、全くの素人の感想としては、実在したと考えた方がよろしいのではと思います。

 上述の通り、各地にお祀りする神社や場所があるということは、明治政府の多少の魂胆(?)があったとしてもそれだけ日本人に愛されてきたという証なんだろうと思います。最後に白鳥になったという話も半分は神様だからと思えば許容範囲ですね。
        

参考までに
東征ルート(古事記)概略

大和     景行天皇に東征を命ぜられる。
 ↓
伊勢神宮   倭比売に不満をもらす。草薙剣と御囊を賜る。
 ↓
尾張国    尾張国造の祖先、美夜受比売の家に入り婚約する。
 ↓
東方の国   山河の荒れすさぶ神と服従しない者たちを平定する。
 ↓
相模国    国造に欺かれ火攻めに合うが倭比売に賜った草薙剣と御囊で難を逃れる
       すぐさま国造らを斬り殺し焼いてしまう。 今、その地を焼津という。
 ↓
走水海    海峡の神が波を起こし、船を廻らせたので渡ることができず。
浦賀水道) 妃の弟橘比売命が入水すると波が静かになり、船が進むことができた。

       弟橘比売命の歌  
       さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

       7日後、妃の櫛が海辺に流れ着いたので、御陵を作って治め置いた。
 ↓
新治・筑波  具体的記述はないが、後に倭建命が歌った歌で新治、筑波に立ち寄った
       ことが分かる。荒ぶる蝦夷を言向け、山河の荒ぶる神々を平定し、ここ
       から折り返して大和に向かう。
 ↓
足柄峠    足柄の坂本で食事中に、そこに白鹿となって現れた坂の神を打ち殺し
       た。
       坂の上に立って三度ため息をつき「あづまはや(私の妻よ、ああ)」と
       言った。それでその国を名付けて阿豆麻と言う。
 ↓
酒折宮    甲斐に出て酒折宮に来たときに倭建命が歌った歌
山梨県)    新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

       御歌に続いて警護のためかがり火をたく老人が歌った歌
         日々並べて 夜には九夜 日には十日を

       その老人を褒めて、すぐさま東国造を与えた。
       その国から信濃国を越えていき、科野之坂神を言向ける。
 ↓
尾張国    婚約をしていた美夜受比売のもとへ入る。
      お食事を差し上げたときに美夜受比売は大きな杯を捧げ持って献上した。
      その時、美夜受比売の襲衣の裾に月経の血がついていた。

      倭建命の歌、ならびに美夜受比売の返歌の後、「合体!」 
      なんともはや・・・。
 ↓
伊吹山    草薙剣を美夜受比売の許に置いて伊吹山の神を討ち取りに出かける。
(岐阜と   山のほとりで出会った白い猪(実は神)が降らした激しい氷雨で前後

滋賀の境)  不覚となる。
       山を下りて玉倉部の清水で休息、次第に正気を取り戻す。

 ↓
当芸野(たぎの) そこから出発し当芸野のあたりに着いた時、歩けなくなり、
養老の滝付近   たぎたぎしくなってしまった。
         ほんの少し進み、杖をついて歩いた。そこを杖つき坂と言う。
         尾津前の一本松のもとに以前置き忘れた御刀が前のままにあった。
 ↓
三重村    足が三重に折れるようになってひどく疲れた。その地を三重と言う。

 ↓
能煩野    故郷を思って思国歌を歌う。
鈴鹿山脈) そして・・・
         嬢子の 床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや
       と歌い終わるやお亡くなりになった。

このあとは白鳥になって飛び去って行く話につながっていきます。

おまけ
① 日本武尊は昭和20年(1945年)に発行された千円札の肖像画に採用されています。
私は翌年発行の二宮尊徳の壱円札は微かに記憶がありますので、日本武尊の千円札も見ていたかも知れませんね。ちなみに、紙幣肖像画第一号は神功皇后で、1881年明治14年)発行の壱円札です。
② 先日、天気が良かったのでドライブを兼ねて茨城県水戸市にある常陸第三宮吉田神社にお参りに行ってきました。ここは日本武尊をご祭神とした神社ですが、都内にあるような洒落た神社ではなく、田舎町の質素な感じがとても良かったです。
 この神社の由緒は、日本武尊が東征の帰路に兵をこの地朝日山に留めて憩わせたという故事をもってこの地に神社を創建し尊を奉祀したということです。但し、創建の年紀は詳らかではないようですが、当神社の古文書によれば23代顕宗天皇から24代仁賢天皇の御代の間(485~498年)と推定されるとのことです。
 また、多くの境内社があり天満宮までありましたが、水戸光圀がお手植えの「縁結びの笹」には驚きました。ホンマカイナ?

吉田神社常陸第三宮の格式ですが、さらに上には第一宮の鹿島神宮鹿嶋市)、第二宮の静神社那珂市)があります。機会があったら行ってみたいですね。