のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

超入門古事記(29)ヤマトタケル東征その2~弟橘比売命の入水

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 倭比売命から賜った草薙剣と火打石によって相模国での難を逃れた倭建命は、さらに東へ進みます。相模からは海路をとり、走水海(現・浦賀水道)を渡る計画です。走水(はしりみず)とは、潮流が急なことをいいます。そして、この海路で悲劇が生まれるのです。オーマイガッド!? いやいや、みんな神だから。

目次

 

1.東征ルート(中盤)

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④⇒⑤ 相模から走水海へ

⑤⇒⑥ 走水海から蝦夷へ

⑥⇒⑦ 蝦夷から足柄へ

2.相模から走水海へ

 相模からさらに東へ進み、走水海(現・浦賀水道)を渡った時、その海峡の神が波を起こし、船をぐるぐる旋回させるので渡ることができませーん! ウリャー、どうすんだよー!

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 その時です、タケルの弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が言ったのです。「私が御子(タケルのこと)に代わって海の中に入りましょう。御子は遣わされた任務を果たして復命して下さい。」
 要するに、自分の身を捧げて海神の怒りを収めましょう、ということですね。そして菅の敷物や、皮の敷物、絹の敷物を何枚も波の上に敷いて、その上に降りていらっしゃったのです。ただ単純に飛び込んだのではないのです。最後までお上品ですね。
 しかし、船が進めないほど荒れ狂う波の上に敷物を敷いて、その上に降りるなんてこと、ほんとにできたの? まぁ、まぁ、そのへんは軽くスルーしてねっ!
 疑問は残るものの、比売が降りると、あら不思議、荒波は静かになり船は先に進むことができたのです。

 むむ!ちょっと待ったー!
 このヒメ様、いったいいつからタケルと同行してたの? ましてや、后(きさき)だなんて、いつ結婚したんだよー!?

 そもそもこの比売の素性は古事記に書かれていないのでよく分かりません。神武東征で活躍したニギハヤヒを遠祖にもつ豪族の娘らしいのですが・・・。タケルと結婚した経緯も全く分かりません。

 弟橘比売命は入水の際、和歌を詠んでいます。

「さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
(相模の野原に燃える火の、その火の中に立って、呼びかけてくださった君よ)

 そう、あの相模での火攻め脱出事件のことなんですね。窮地にあっても妻への思いを持ち続けたタケルへの感謝の意を詠ったと言われています。
 ということはですよ、尾張の美夜受比売と婚約してから相模に着くまでの間に結婚した、と推測されます。でも、古事記にはそんなことどこにも書いてない! 責任者出て来いやー!!

3.土地名の由来に名を残す

 弟橘比売の入水七日後、比売の櫛が海辺で見つかり、タケルは御陵を作って治めました。タケルの受けた悲しみは大変大きく、なかなかその地を去ることができなかったのです。千葉県木更津市の地名由来です。あくまでも諸説の内の一つです。

 君不去(きみさらず)⇒ きさらず ⇒ 木更津

 さらに、比売の着衣の袖が流れ着いたことからついたと言われる地名が袖ケ浦です。袖は左右あるので、2か所あるんですね。

 千葉県袖ケ浦市
 千葉県習志野市袖ヶ浦

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4.走水海から蝦夷へ、蝦夷から足柄へ

 タケルはさらに進み、荒ぶる蝦夷たちをことごとく説得し、山河の神たちを平定して大和に帰る途中、足柄の坂下に至ります。

 この時代の蝦夷とはどのあたりまでを言うのか、はっきりしていませんが、後々、甲斐の酒折宮で詠った歌で、茨城県の新治(にいはり)や、筑波に行ったことが分かります。このあたりから大和への帰途についたと考えられます。(日本書紀では、岩手県あたりまで言ったという記述がありますが、専門的なので割愛します。)

  新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる

 足柄の坂下に着いたタケルは、坂に登り立ち、弟橘比売を思い三度ため息をついてこう言ったのです。「吾妻はや(我が妻よ)」 ゆえにこの国を阿豆麻(東・あずま)と言うのです。この国とは、走水海を渡って進み、足柄に帰るまでに平定してきた所全体を指すと言われています。

 日本書紀ではこの「吾妻はや」は、⑧碓日の坂(碓氷峠)で仰ったとあります。このへんのコースが古事記と若干違うのですね。

5.今回のポイント

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①暴風を鎮めた弟橘比売命の献身
 東京湾一帯にはオトタチバナヒメに関係する神社が30数カ所もあり、大半が漂着した櫛や袖、布といった遺物を祀った縁起をもつと言われています。
②常陸国風土記では倭武天皇が登場
 常陸国風土記では常陸国を「常世の国とはこの地のこと」と書いてあるそうです。ちなみに、同風土記には「倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)」が登場するそうですが、倭建命とは別人でしょう。同風土記の完成が明確ではありませんが、元明天皇が全国に向けて風土記撰進の勅命を出したのが和銅6年(713年)ですから古事記完成直後、日本書紀完成以前になります。従って、古事記に出てくる倭建命を模して書くには無理があります。恐らく、これらとは全く違う伝承上の人物だと私は思います。(意見には個人差があります。)

6.まとめ

 さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、有り難うございます。

今回の話は、弟橘比売命の活躍(?)が全てでしたね。日本人が大好きなパターンの話ですね。倭比売命、美夜受比売、弟橘比売命とヒメ達の後ろ盾があってのタケルであることがよく分かりますね。

 さて、次回は東征の終盤になります。

 お楽しみに!!

 


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