のと爺の古事記散歩

古希+1歳になった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

神功皇后大研究(4)

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③ 三韓征伐

 いよいよ神功皇后の三韓征伐の話ですが、まず冒頭の写真です。武装した神功皇后と赤ん坊を抱いた武内宿禰、そして赤ん坊が品陀和気命(ほむだわけのみこと)、後の15代応神天皇です。ということは、これは新羅から凱旋後のものですね。

 本題に入ります。神功皇后は神の教えに従って軍を整え、船を並べて海を渡っていかれた時に、海原の魚が大小を問わずみな、船を背負って渡った。そして、追い風が盛んに吹いて、船は波の寄せるのにまかせて進んだのです。そして、その船を乗せた波は新羅国に押し上がり、一気に国の中央に達しました。
 その様子を見ていた新羅の国王は驚き畏れつつしんで、戦うことなく、「これから後は、命令にしたがい、毎年、多くの貢物を献上する船を送り、天地のあらんかぎりお仕えしましょう」と言った。また、新羅が降伏したことを聞いた百済、高句麗も、その時すぐに降伏した。
 そして皇后は新羅征伐の仕事が終わらないうちに子を生みそうになりました。そこですぐに生まれないように御腹を鎮めるため、石を服の腰に巻いたのです。そして新羅から帰り筑紫国にお渡りになると御子が生まれました。後の15代応神天皇です。皇后が腰に巻いた石は「月延石」と言われ、安産の石として月読尊(つきよみのみこと)の神託により、松尾大社の摂社である月読神社に奉納されたといわれています。

 と、まぁ簡単に言うとこんな話ですね。どうでしょうか、皆さん。この話は本当のことだと思いますか? 魚が船を担ぎ、運良く波が立ち、一気に新羅国の半分に達したなんて話、信じないですよね。こりゃまるで悟空のかめはめ波だ、かめはめはぁーー!!

 そうなんです、この三韓征伐は作り話だという説があるんですね。私もそう思います。ただ、だからといって声高にうそだと言うことはしません。なぜなら、そんなこと言ったら古事記の、特に神代の話はほとんど?がつく話ばかりだからです。ある著名な方が著書に書いておられます。
「古事記に書いてあることは真実なのであって、事実かどうかはさして重要ではない」と。
そうなんです、うそかほんとかを問うより、書いてあることをそのまま受け取って読んだ方がなんぼか楽しかんべ!

 神功皇后の三韓征伐の話と、セットになっているかのように出てくるのが「広開土王碑」の話です。広開土王は高句麗の第19代の王で、碑は息子の長寿王がその功績を称えて414年に建てたものと言われています。現在の中国吉林省に残っている碑にはこう書いてあるそうです。
 「そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。」
実はこの碑文の解釈にも諸説あるのですが、私のキャパを越えているため割愛します。

 この碑文が神功皇后の三韓征伐の裏付けになるのかは分かりませんが、当時の日本が朝鮮半島で広開土王碑に記録されるほどの軍事力を発揮していたのは事実のようですね。
 さて、出産を終えた皇后が大和国にお帰りになる時、人々の心が疑わしく、生まれたばかりの子の命が狙われる危険がありました。どうやら御子の腹違いの兄達が不穏な動きをしているようなんですね。こわいですねぇ~、こわいですねぇ~。さぁ、どうする皇后、そして武内宿禰は??

 ではでは今回はここまで。次回をお楽しみに!!