のと爺の古事記散歩

古希+4歳になってしまった爺さんが勝手気ままに古事記を散歩します。

神功皇后大研究(3)

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武内宿禰明治22年発行 1円札)

② 熊襲征伐

 神功皇后熊襲征伐の話ですが、本題に入る前に冒頭写真の武内宿禰について少し話しておかなければなりません。武内宿禰古事記では建内宿禰)は、13代成務天皇から始まって、仲哀、応神、仁徳の4代の天皇にトータルで244年の長きに亘り仕えた、赤穂浪士大石内蔵助もマッ青の忠臣と言われている人物です。そして神功皇后の事績にも大いなる功績を残しています。そして、この方も明治時代には紙幣の肖像になってるんですね。それこそ、武内宿禰で大研究シリーズができるくらい謎の多い人物ですが、マニアック過ぎるので詳細は機会がありましたら、ということで止めます。

 次に、熊襲(くまそ)とは「日本の記紀神話に登場する、現在の北九州または九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々。また地域名自体を表す総称である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。」(ウィキペディア)とあります。
 皆さん、熊襲と聞いて、あれっ?と思いませんか。そう、熊襲ヤマトタケルがやっつけたんじゃないの? いや、あれはね、あくまでも当時の権力者の熊曾建兄弟をやっつけたんであって、一族を根絶したわけではありません。従って、時間が経てば再び復活するんですね。出雲建もヤマトタケルにだまし討ちされましたが、それで出雲国が消滅したわけではありません。
    さて、ここから神功皇后の登場です。一部、アマテラス大研究(9)と話が重なりますが、仲哀天皇熊襲を討つために筑紫の香椎宮にて琴を弾き、武内宿禰が託宣を聞くため庭にいて、皇后が神依をしたんですね。結局、新羅攻撃の託宣が下ったのですが天皇はこれに従わず、古事記では神の怒りに触れて亡くなり、日本書紀では熊襲と戦うが結局敗走し、その後急病で亡くなったと書かれてあります。
    この後、神功皇后は神の託宣に従って新羅侵攻を進めるのですが、この話は次回にします。ここで気になるのは、熊襲討伐の話はどうなっちゃったのか、天皇が亡くなったのでやめちゃったのか? このことは記紀には書いてないんですね。で、私は生来しつこいもんですからいろいろ調べました。そして、佐賀県杵島郡大町町教育委員会HPにたどり着きました。やったぜ、ベイビー! そこにはこうあります。文章をそのまま拝借いたしますのでご了承下さい。

 

 文武天皇の大宝9年(709)のことである。行基というえらいお坊さんが、馬に乗って石崎あたりを通りかかった。すると、乗っていた馬が急に足を止め、ぶるぶると震えだした。行基は不思議に思いながらも馬を進めようとした。しかし、馬はどうしても動こうとしない。しかたなく行基は馬を降りて村の人たちに尋ねた。
 すると村人は、「この辺りは昔、景行天皇が土蜘蛛八十女(つちぐもやそめ)を退治されたところです。その後も、日本武尊(やまとたけるのみこと)が熊襲(くまそ)をうったり、神功皇后が、その生き残った熊襲の子孫を滅ぼしたところです。だから、その恨みをいだく亡霊が出てきて村人を悩ましているのです。特に、雨が降る夜は恐ろしいものです。何日か前も大火事があってたくさんの人が死んでしましました。何とかならないものでしょうか。」と涙を流しながら話した。
 この話を聞いた行基は、「昨日は小田(江北町)の里に泊まりました。宿の者が言うには、『この村には人々がお祈りするための御仏がいらっしゃいません。何とかならないでしょうか。』と一生懸命に頼むので、観音様を一つ作ってやりました。そして、また今日はこの石崎でこのようなことがあろうとは・・・。」と言って怨霊をお祓いするお経を唱え始めた。そして、ここに鎮護神(ちんごしん)を祭った。
 これが石崎八幡宮(中島公民分館近く)のおこりである。今の福母八幡宮は、この石崎八幡宮を移したものだと言われている。

 

 という話です。これで神功皇后天皇崩御後、熊襲を滅ぼしたということが分かりますね。
まぁ、伝承ですから歴史的にはどう評価されるのかは分かりませんが・・・。

  ではでは今回はここまで。次回をお楽しみに!!

 

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