東の蝦夷たちを説得し、山河の荒ぶる神たちを平定し終えると、タケルは大和への帰途につきます。そして、思い出したんですね、そうだ、熱田の美夜受比売と婚約してたんだっけ! 熱田へ急がなきゃ、ミヤズちゃーん、愛してるよーっ!♡♡
目次
- 1.東征ルート(終盤)
- 2.足柄から熱田へ
- 3.熱田から伊吹山へ
- 4.伊吹山から能煩野へ
- 5.タケルは白鳥に?
- 6.草薙剣はどうなった?
- 7.タケルの妃と御子
- 8.結局、倭建命とは何者だったのか
- 9.まとめ
1.東征ルート(終盤)
⑦⇒⑧⇒⑨ 足柄から熱田へ
⑨⇒⑩ 熱田から伊吹山へ
⑩⇒⑪ 伊吹山から能煩野へ
2.足柄から熱田へ
タケルは足柄から信濃国を越え、尾張国に戻ったのです。そして、婚約していた美夜受比売の所に入ったのです。「ミヤズちゃーん、お待たせーっ、戻ってきたよー。愛してるよー!!」
ちょっと待てよ、タケルくん! なにがミヤズちゃーんだよ。「吾妻はや」とか言って悲しんでいた弟橘比売命のことはどうしたんだよ、まさか忘れた訳ではあるまいに。ほんとにもう、いつの世も男というものは・・・。
この時、比売の着衣の裾には月経の血が付いていたのですが、お互いに歌を交わしあい、合体~♡♡。 いやはや、もうなんとも言えませんなぁ、好きにやれば・・・。
3.熱田から伊吹山へ
からすカァで一夜明け、タケルは草薙剣を美夜受比売のもとに置いて、伊吹(滋賀と岐阜の県境)の山の神を討ちに出かけました。この、剣を置いていったことが後々、命取りになります。
タケルは「この山の神は、剣を使わず素手でやっつけよう。」と言って山に入りました。剣を持たずに、自分の力を確かめたいと思ったのでしょうか。山の麓で牛のように大きな白い猪と出会います。「こいつは神の使いだんべ、いまやっつけなくとも、帰りにやっつければよかんべ。」と言って通り過ぎたのです。
すると、突然、激しい雹が降ってきて、雹に打たれたタケルは気を失います。白い猪は神自身だったのです。神の怒りに触れてしまったのですね。なめてんじゃねーぞ!
4.伊吹山から能煩野へ
意識を回復したタケルが伊吹山を出て当芸野(たぎの・岐阜県養老町)の辺りに着いたとき、言ったのです。「私の足は歩くことができず、たぎたぎしく(腫れてむくんだ様)なってしまった。」そこで、その地を当芸(たぎ)というのです。これも伊吹山の神の怒りなんでしょうか。
そして、尾津前(おつのさき・桑名市付近)から三重の村(四日市辺り)に至ったとき、さらにこう言ったのです。「私の足は三重の餅のように、腫れて曲がってしまい、とても疲れた。」
さらに能煩野(のぼの・鈴鹿市辺り)に至ると国を偲んで何首かの歌を詠います。このころにはもう、あれほど強かったタケルの面影は全くなくなっています。いや、死期が近いと言った方がよいかも知れません。
そして、危篤状態になりながら詠ったのが、次の歌です。
嬢子(おとめ)の 床の辺に 我が置きし 剣の太刀 その太刀はや
おとめ(美夜受比売)の床のかたわらに、私が置いてきた剣の太刀(草薙剣)よ
その太刀よ
この歌を詠んでタケルは崩り(かむがり)あそばされたのです!!
オーマイガッド!
5.タケルは白鳥に?
大和にいた天皇の后や御子たちが能煩野にやって来て御陵を作り、葬儀を行いました。すると、タケルの魂は大きな白い千鳥の姿になって、天空に羽ばたき、浜に向かって飛び去ったのです。
日本書紀では「白鳥」とあるのですが、古事記では「八尋白智鳥」なんです。まぁ、結論から言うとどっちでも良いのではと思います。ただ、八尋の千鳥となると、相当デカイ。
6.草薙剣はどうなった?
古事記には何も書かれていませんが、熱田神宮のHPによれば、タケルの死後、草薙剣は伊勢に戻ることなくミヤズヒメと尾張氏が尾張国で祀り続けたのです。これが熱田神宮の起源とされ、現在も同宮の御神体として祀られています。そうそう、今上天皇ご即位の式典等で侍従の方がうやうやしくお持ちになっていた剣はレプリカです。
本物は熱田神宮にあり、皇居にあるのはレプリカということですね。ん?、壇ノ浦で海に沈んだのはどっち? 安徳天皇の話は機会があったらしましょうね。
7.タケルの妃と御子
古事記によれば、タケルには6人の妃と6人の御子がいます。熊曽征伐に出立したのが15~16歳、そして日本書紀によれば、崩御は30歳です。よろしいですか、みなさん。
この約15年は戦いの連続だったはず。それなのにいつの間にか?妃と御子が各々6人いるんです。そのなかには後の第14代仲哀天皇もいらっしゃいます。これはもう、ご立派としか言いようがありませんね。
この中に美夜受比売がいないんですね。ちょっと理由が分かりません。子供がいなかったからでしょうか。それと、父である景行天皇と曾孫の迦具漏比売が結婚して大江王が生まれたとあるのですが、これはあり得ない話でなにかの間違いでしょうね。
8.結局、倭建命とは何者だったのか
古事記編纂者(太安万侶だけではないと思いますが)は出雲系のヒーローである大国主命に匹敵する大和系のヒーローとして倭建命を描きたかったのではないかと思います。大国主命は八十神に二度も殺されたり、根の国でスサノオに散々いじめられたりしたが、結局は葦原中国を豊かな国へと変貌させたスーパーヒーローである。しかも、高天原はこの豊かな国をゴッド姉ちゃんアマテラスのわがまま(?)で略奪してしまった。天つ神の系統者は略奪ではないと言うが、建御雷之男神を遣わした段階で誰が見ても武力による略奪でしょう。
大和朝廷は、この略奪のイメージをどこかで払拭したいと思い、関東にまで勢力を伸ばした景行天皇期に合わせて倭建命の活躍を国造りとして前面に押し出したのではないでしょうか。その証拠に古事記は景行天皇の段では天皇の事績はチョロットしか書いてなく、殆どを倭建命の記述に使っています。大和朝廷だって国造りをやってるんだ、みたいな。
では、どうして倭建命は死ななければならなかったのでしょうか。これはもうスーパーヒーローには不可欠の「非業の死」ってやつじゃないでしょうか。日本人のⅮNAには古代も現代もこの心情が組み込まれているのです。源義経なんてその最たるものですよね。あちこちに倭建命遠征の痕跡と言われる場所があったり、お祀りする神社が数多くあることを考えると、古代の人も悲劇のヒーローに惹かれたのではないでしょうか。
ちなみに、日本武尊は昭和20年(1945)に発行された千円札の肖像画に採用されています。終戦直後の発行なので、なにか政策的意図があったのかも知れませんが、詳しくは分かりません。
9.まとめ
さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、有り難うございます。
30回に亘って超入門古事記をお送りしてきましたが、今回を持って一旦終了とします。
長すぎて飽きちゃったという方もいらっしゃるかも知れませんね。私としてはお一人でも古事記に関心をもっていただければ嬉しい限りです。
6月19日には都道府県を跨ぐ移動制限も解除されるようなので、また少しずつ神社めぐりを始めたいと思ってます。
お楽しみに!!
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