(NHK公式サイトから拝借しました)
前回の高木神社参拝記事から、はや1か月が経過してしまいました。実は前回記事をアップして後、体調を崩して一週間ほど寝込んでしまいました。(コロナではありません)その後、体力回復に努め、少しづつ体を動かし始めましたが、あいにくの猛暑日の連続で、神社巡りどころかそれまでの日課だったウォーキングもままならず、ブログ記事の更新など全くできませんでした。
家に閉じこもっている間、大河ドラマを見ていてなにげに思ったのです。三谷さんの脚本が史実だと仮定したら、
「北条は、なぜ、伊東から逃げてきた頼朝をかくまったのか?」
「もともと、伊東も北条も坂東平氏の一族で、ましてや北条時政は伊藤祐親の娘を
娶っているので舅と娘婿の関係なのに、なぜ対立してまでかくまったのか?」
こんなことを考え出して、NHKオンデマンドで第一話から見直したり、漫画を含めて関連図書を読みだしたりしました。現在進行形です。
てなわけで、神社巡りが従来のようにできるようになり、関連記事がアップできるまでのつなぎとして、爺さんなりの独断と偏見に満ちた鎌倉殿の解釈を記事にしていきたいと思います。興味を持っていただける方は是非お付き合いいただければ幸いです。
さてさて、当然のことながら歴史はつながっていますので、上記の疑問点を調査していくためには保元平治の乱あたりから朝廷、源氏、平氏の関係を調べていく必要があると思います。
保元元年(1,156年)・・・保元の乱
平治元年(1,159年)・・・平治の乱
頼朝が伊東から逃げたと推測されるのが安元元年(1,175年)
結構、日本史的にも面白い時代なのですがボリュームもあるので、どのくらいの間隔で記事にできるかは分かりませんが、頑張ってみます。
詳しくは次回から!
余談ですが、鎌倉幕府が成立したのはいつですかと聞かれたらなんと答えますか?
我々の時代は、「イイクニつくろう鎌倉幕府」で、頼朝が征夷大将軍になった1,192年でしたが、今の学校で教えているのは頼朝が朝廷から守護地頭任命権を獲得した1,185年(イイハコ)なんですって!なんか、語呂合わせもできなくてツマンナイねぇ~。
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