突然ですが問題です。「建武の中興」について説明せよ。」はぁ~!?なんだって?
なんか日本史で習ったような微かな記憶が・・、と言う方がほとんどだと思います。そんなことない!知っとるでー、という方がいらっしゃったら🙏
なぜ、いきなりこんな話かというと、今回訪れたのは後醍醐天皇の忠臣とされる公家が祀られている小御門神社(こみかどじんじゃ)なのです。従って、古事記の神様は出て来ませんのでご了承下さい。でも、独特の雰囲気を持った神社ですよ!爺さんは嫌いじゃないです、テヘッ!
1.場所
ここです。
2.御由緒と御祭神
第96代後醍醐天皇は天皇復権を賭けて二度の倒幕を計りました。一度目は正中元年(1324年)の正中の変、二度目は元弘元年(1331年)の元弘の変です。
元弘の変では側近の密告により計画が発覚し、天皇は比叡山を頼ろうとしたのですがうまくいかず、笠置山に籠城することになります。このとき、天皇の側近であった藤原師賢(ふじわらもろかた)が天皇の身代わりとして比叡山に登り幕府軍と戦ったのです。そして天皇は、この間に笠置にたどり着いたということなんですね。
結局は天皇は捉えられ元弘二年、隠岐の島へ流されます。藤原師賢も下総に流され、その地で32歳で没します。
後醍醐天皇は、その後隠岐を脱し、始めは幕府軍にいた新田義貞や足利尊氏などと呼応し、鎌倉幕府倒幕に成功します。そして後醍醐天皇による親政が始まり、いわゆる建武の中興がなされたのです。その後、天皇は藤原師賢の死を悼み、太政大臣を追贈され文貞公(ぶんていこう)と諡されたのでした。師賢は有力な歌人でもあり、勅撰和歌集などに文貞公の諡号で入集されています。
明治15年(1882年)、明治天皇は国の守り神として小御門神社を創建し、別格官弊社(国家に功績のあった人物を祀る神社)としたのです。
めちゃくちゃ省略した説明ですが、お分かりいただけたでしょうか。この時代は天皇と武家の権力争いが激しく、やがては後醍醐天皇は足利尊氏とも別れ、南北朝時代へと移っていくのですね。昨日の味方は今日の敵、めっちゃややこし!
ということで、御祭神は身代わりの神、学芸の神 贈太政大臣藤原師賢公です。
当社のHPはこちらです。
3.参拝
では、参拝しましょう。横芝下総線と呼ばれる県道79号線を成田方面に走ると、緩いカーブにかかるところに大鳥居があります。
はやくも、新年の準備ができていました。この木製の鳥居は香取神宮のご用材で昭和9年に建てられたそうです。実はこの鳥居は二の鳥居で、一の鳥居はここから5kmほど離れたJR滑河駅方面にあります。ただし、今回はそこまでは行っていません。
社号碑は公爵近衛文麿の書です。
鳥居をくぐると参道ですが、空気感が一変します。背筋がスッとします。
手前に祓所、奥に手水舎が見えてきました。
祓所と手水舎の間を直角に左折すると社殿が見えます。茅の輪もありますね。
なんと、鳥居と玉垣が一体化しています。拝殿、本殿はぐるっと木製の玉垣で四方を囲まれています。写真でわかりますかね? こういうの初めて見ました。
4.拝殿
玉垣御門をくぐるとコンパクトな拝殿です。
5.本殿
拝殿の脇に廻ると瑞垣門、本殿屋根が見えます。拝殿と本殿は独立しています。本殿は玉垣と瑞垣で二重に囲まれているということですね。
6.御祭神霊廟
藤原師賢公の霊廟があるとのことで、行ってみました。拝殿左手の門から一旦境内の外に出ます。
途中に神庫があり、よく分かりませんが石碑がありました。「文貞公御廣道」と読めるのですが?
そして、その先にありました。御霊廟です。丁度、本殿の真後ろです。そうすると、拝殿、本殿、霊廟が一直線に並んでいることが分かります。
7.その他、境内には
〇ご神木
〇水神社
〇神社の森
8.ご朱印
通常のものと、今年の大祓のご朱印をいただきました。
9.まとめ
さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、有り難うございます。
今回の小御門神社を参拝するに当たって、参考文献(というと聞こえが良いですが、要するにご朱印めぐりの雑誌です)を見ていたら、「建武中興十五社」というのがあることが分かりました。当社はこの一社なのですが、他は全国に散らばっており、残りの神社を巡ることは爺さんには事実上無理ですね。強いて言えば、行けそうなのは後醍醐天皇皇子の護良親王(もりよししんのう)を祀る鎌倉宮ぐらいでしょうか。
さてさて、今回が今年最後の記事となります。(多分)
いつも多くの皆さんにお読みいただき、老い先短い?年寄りの励みになっております。どうか皆様、コロナに負けずに良い年をお迎え下さい。m(_ _)m(お前もな!)
先般申し上げた、参拝100社を目指し、来年もがんばっぺ!!
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