治承4年(1180年)8月、ついに頼朝は以仁王の令旨を旗頭に挙兵を決意します。頼朝34歳、伊豆に配流されてから実に20年後のことです。まず、伊豆国目代の山木兼隆を倒します。まあ、ここまではよかったのですが、世の中、そんなに甘くなく、このあと頼朝は散々な目にあいます。
1.石橋山の戦い
山木を破った頼朝軍は相模国を目指すのですが、兵力はわずか300騎といかにも少なく、合流するはずの三浦軍も悪天候のため参戦できない状態。それどころか三浦軍は由比ヶ浜で畠山軍と争う羽目に陥ってしまいます。
結局、大庭軍3000騎と伊東軍300騎に挟み撃ちにあった頼朝軍は石橋山に陣を張るも総崩れとなり、頼朝は大敗し少数の配下と山中を敗走します。
頼朝がある洞窟に隠れているところを大庭軍の梶原景時に発見され万事休すかと思いきや、なぜか景時は頼朝を見逃したのです。この話は有名ですよね。ここで頼朝が打ち取られていたなら鎌倉幕府はなかったでしょうし、歴史は全く変わっていたでしょう。
結局、頼朝は命からがら、真鶴岬から海路、安房国に逃避するのです。この時代に東京湾を横断するなんてよくやりますよね。大河では手漕舟でしたけど、実際はどんな舟で渡ったんでしょうか。
2.坂東の勢力図
このころの坂東(関東)の勢力図です。頼朝方と反頼朝方の色分けはもう少しあとに考えるとして、実はここで興味深いことが分かったんです。
坂東八平氏(ばんどうはちへいし)をご存じでしょうか。読んで字のごとく、坂東における平氏管下の代表的な八豪族を言います。上総、千葉、三浦、土肥、秩父、大庭、梶原、長尾の各豪族をいいます。彼らは平治の乱後、平氏の管下に置かれているのですが、なんと、保元、平治の乱に義朝の作った坂東武士団で参戦しているのです。
残念ながら源義朝が平治の乱で敗れたため坂東に戻り、平氏の管下に置かれるようになったというわけです。大河をご覧になっている方は気が付かれたかと思いますが、のちに千葉常胤が頼朝に会ったときに、頼朝の面影がかつて仕えた義朝に似ているという話をしていましたね。
3.坂東武士の理念「一所懸命」の意味
かつては源氏、今は平氏とまるで手のひら返しですが、実はこれ、坂東武士の基本理念によるものなんですね。その理念とは「一所懸命(いっしょけんめい)」です。今は一生懸命と書く方が多いようですが、もともとは一所懸命なんです。
では、その意味はというと、一所とは「自らの所領」、つまり自分が所有する土地です。また、「一族と所領」と解釈する場合もあります。つまり、「自分の一族、所有する土地を守る、拡大するために命を懸ける」ということです。当時の豪族たちが戦に加わるのは、勝利した報酬として敵の土地を分配してもらうことを狙っていたのです。
平氏だとか源氏だとかは一切関係なしです。
ですから、昨日の友は今日の敵になっても、彼らにしてみれば裏切りでもなんでもなく茶メシなんです。
4.坂東武士が頼朝勢に加わった理由
さぁ、ここまでくると「なぜ坂東武士が頼朝勢に加わったのか」という疑問が解けたように思います。わざわざ大きな戦などせずに頼朝の首を取って清盛に届ければ報酬は思いのまま、みたいにならなかったのか。
平氏の管理下に置かれている状況に大いに不満があったのと同時に、頼朝の首をとっても報酬に期待できないと思ったのではないでしょうか。なぜなら、流人頼朝には分配を見込める財産など皆無だったからです。それよりも、頼朝を旗頭に平氏と戦い、うまくいって勝った暁には、分配する土地は全国にある、こりゃ、ちむどんどんするさぁ~!うさぴょんぴょん!!
坂東武士は大きな博打に出たんじゃないかというのが私の勝手な解釈です。
5.まとめ
さぁ、いかがでしたでしょうか。最後までお読みいただき、ありがとうございます。
頼朝と坂東武士の微妙な関係はこれから始まります。主従関係ではなく、もしかしたら明日は敵になっちゃうかも、という関係ですから頼朝は坂東武士を全面的には信じていなかったということも分かりますね。
次からは、いよいよ鎌倉を目指して大軍団を構成していく話になります。
参考文献
一冊でわかる鎌倉時代 大石学 河出書房新社
考証 鎌倉殿をめぐる人びと 坂井孝一 NHK出版新書
読む年表 日本の歴史 渡部昇一 WAC文庫
源氏の血脈 野口実 講談社学術文庫
マンガ日本の古典吾妻鏡(上) 竹宮惠子 中公文庫
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